シネコンでの観ようという気が起こらない題目、ホテルでのパスポートの山積み、行楽地での異国語の行き交いとバイタリティ、安心を買うための静寂は日本的な、そこになく、楽園はモールに囲い込まれてシニシズムが個体を打ちのめしては、「べき」論の声の大きさが小さな抗いも掻き消す。そして、アップルではなく、レモン。ビターに今年をひとつ代表するだろうMADE IN JAPANの曲は限りなく教会の中に閉じてしまう。人気ドラマの主題歌や米津玄師自身のポピュラリティより集団的無意識の中に通底する悲しみや喪失感を昇華させるにはきつい気がしながら、当たり前に嚥下されてしまうのもこの瀬のやるせなさで、もうやるせなさを感得することも贅沢な味わいで、心臓の鼓動や脳の動きより先にタイプキャスティングするこの大きさで涙した後の日常の壮絶さに息が詰まる。昨今のMVの傾向に倣い、中性化していき、多様化のフォルムがしっかり刻印され、女性が祈るように踊る、様ざまな肌の色の人たちが出てくる。いわゆる、クライマックスの3:33秒辺りで米津自身が歌いあげる後ろのシーンが象徴的に。ただ、ダイバーシティが究極的に島国の日本で根付きにくいのと同じくして排除から始まること、と包摂から思惟することの間の壁は高くして越えられないみたく現代の聖歌はどこに意訳されてゆくのだろうか。