端整すぎた各都市のいつかの再整備計画の近くには必ず排除型アートらしき何かがあり、少しの休憩もできないか、工事途中のままで投げ出され、終わって老朽化していたりする。自然は「自然」らしく、あったはずなのが必要部分だけを刈り取って周りを風光明媚な施設で囲い込んでしまったり、寂れとハイブリッドの相比が反撥し合い、確か、ここにはサイケな喫茶店があったはずだな、あそこの古書店も閉鎖だな、なんて。記憶のなかで追認するのがやっとのようでおのずと足は遠のく。なぜならば、自分の中で寄り道の過程はまだまだ現前するからで、急ぐ必要はなく、多少は「停滞」気味な方が風景が見渡せる場合があるのを知っていることを、知っているからだ。せわしなくディスプレイを観るのを辞めてみれば、視野のそばにきっと優しさと野暮ったさがある。彼らの若さゆえの老成した風趣な音を形容で「らしい」というにはあまりに甘美で眩い倦怠感があり、そこが手に届かなくていい。この曲もシューゲイズなウォール・オブ・サウンド、そこに“太陽は僕の敵”な唄が今らしく響き、映像も淡くローファイな歪みが、はぜながら伝わってくる。昔、「喫茶ロック」なんてコンピが持て囃されたことがあったが、そのカテゴリー自体が喫茶とロックを切り離してしまうようにTHE LOST CLUBという匿名性を帯びたバンド名自体が不明瞭で、だからこそあまりに大きくて紋切型すぎる音楽や華美で豪奢になった、いつかの風の街へと寂れた逃避行をはかる行程を夢見てしまう。きっと道なき道でも、投げ出された計画書を拾えば、自分なりで書き足していける情景が、と。国境線がシビアに敷かれる淵などスルーして。