Hot Chip『Need You Now』
野田薫『小さな世界』
Noh Salleh
『Angin Kencang』
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アーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』(”A Moveable Feast”)は自伝的な雑記集で彼の著作の中でもそこまで有名な類いではないが、今でこそ、秀逸な邦訳のみならず、多言語で刊行されていて、目にする機会が増えたとともに、少し違った毛色のものとして愛でられ、読み手に深呼吸を促すように心に突き刺さってくる。1920年代の巴里の濃密な薫り、旧友との疎らな詩情から、何らかの運に恵まれて、多感な時期にパリに住んだ経験がある人ならば、残りの人生にもパリが付きまとう(だろう)ある種の呪詛的な示唆が、幾つかの暗喩と時代的な記号によって暈され、時代の機微を掬いあげる。
このノ・サリの音を聴いていると、その作品の息吹に似通ったような、そして、異境への移動、居住の途程としてでも、少しのあいだ、居た磁場への引力が可視されるとともに、逃れられなくなる様な白昼夢的な祝祭の中に漂流するような気分になる。そこも狙ったかのように、このMVは日本の名古屋の田舎で撮影されており、異境から日本をフィルタリングで捉えたときに起きる妙なズレ、遠心性を感じる情景が巧み異化作用として映り込む。かやぶき屋根、農作業にいそしむ方々、水車、田園風景、小さなグラウンドで遊ぶ子供まで今の、日本の中でこそ感じ得ないことが多いと思えてしまう古き良き牧歌的なシーンの数々を、あくまでサングラスにスーツ姿のエトランゼとしての彼がギターを持ち、ハミングするように歩き抜けてゆく。
ノ・サリは、マレーシアの著名なアーティストで、ロック・バンドHujanのフロントマンとしての活躍のみならず、プロデュース・ワーク、ライヴ・パフォーマンスまで確かな人気と評価を得ているが、ソロ・ワークは初作になる。洗練されたシティ・ポップの情緒は今まで以上に、聴く人を選ばない和らぎを保ち、透いた空気感には、約13年ぶりの新作も流石だったジェームス・テイラー、近年のスフィアン・スティーヴンスなどへと連綿と続く、佳きSSWの因子が受け継がれ、ブライアン・ウィルソン、カート・ベッチャー、バート・バカラックといった歴々をはじめ、〈A&M〉レーベルの周縁のソフト・ロック、昨今ポスト・クラシカルから分岐してのバロック・ポップといったものからの影響が色彩豊かに表出しているといえる。その様はまさしく、多民族が行き交うマレーシアという国の都市部の雑然と研ぎ澄まされ、混ざり合ったカルチャーの先の純度の高いロマンティシズムがポップ・ミュージックとして浄化されたようなところが伺える。まるで、日本のいつかの、渋谷系と呼ばれた音楽の青い影が射し込むように。しかし、手持ちの情報量やカードの多さを周到に見せつけるような捻りやギミック先行ではなく、歌詞は普遍的で非常にシンプルな「きみと、ぼく」を巡るラブソングというところも含め、衒いのなさがいい。移動祝祭日に、あてどなく誰かを想って手紙を綴るのはもはや、パリに限らずとも、今はどこへも届きやすくなった瀬に彼のつむぐ唄もそういう風にさりげなく、聴き手の日々に添うのではと感じる。
(2015.6.25)
(レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
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