このmusipl.comの目につくレビューが1,000という数前後(記事やセルフ・レビュー含めたらもっとある)の中、また先に続いてゆく中で、少し触れておきたいことがある。第一に、以前にも書いたが、Searchの欄から自身が気になるアーティストやバンドをクリックしたなら、少しランダム機能を試してほしいこと。そこにはもうMV、画像が削除されているものもある。同時に、評した言葉の旧さもあるだろうと思う。第二に、この膨大な数のなかに決して難しい評論は存在しないこと。評論とは別義にレビュワーそのものの時どきの風刺や心情吐露が結びついているケースが少なくなくある。でも、それはその「個」が降りた深い井戸(id)で結びついているえにし(縁)があるということでもある。誰でも、“いかにも”なことを短く纏めて言える風潮が強まったなかで、普遍とは個的な何かに、そして、個は絶対的な普遍に迎合しかねない。
昨今のSNS、ネット・カルチャーはあらゆる価値観を変え、同時に昼夜、世界の時差感覚を均してしまった。
口コミ、セルフィー、裏アカ、炎上、ただの揶揄、それらはどこのアカウントからでも出るようになり、そうなってくると、ノイジィ・マイノリティにあっという間に火消しされてしまうことが出てくる。ゆえにむしろ、サイレント・マジョリティというのは、どうにも伝播の、伝播の先の便乗的な何かを意味するようなところもあるだけにマルチチュード的な意味合いに是非論を唱えるのはなく、是か非でそれに賛成、反対するかで決まってしまう「世論」という磁場がいつの間にか出来てしまっていると思う。
さて、このサイトでも、随分昔に書いたアーティスト、バンドがブレイク、または何らかの報、関心本位の下で「再発見される」ことが多々あるようになってきている。再定義レビューもあるのも大きいが、その時に、「今さら」というのか、「今さらながら」というのが非常に曖昧模糊になっていて、そこの動画のコメント欄を見ると、空白もあれば、もはやツリー状に下位が上層を逆転しながら、同時に、ただの感想でも誤配していたりする。それが間違っているとは思わないし、もう根付いてしまった(匿名的)「自己」は残照で永劫にネット的なショートカットを生きる。無論、「既読」マークがなくても確認できている何かは多々ある。写真共有サイトにあげなくても、伝わる何かも多々ある。
それでも―
2016年を象徴する、大ヒットした『君の名は。』という映画を観に行ったあと、自身より、周りでビビッドな感覚を持つユースや色んな人たちに意見を聞くと、リピーターも多かった。「社会」という単位をかろうじて保つメディアが個々に分散されながら、ある種、帰一してゆく装置性の中で、何かが肥大してゆく感じ―。これは正直、何度か体験していてそのアップデートの速さがまた違っていて、少しだけゾッとした。パノプティコンなんていうのはポストモダンを越えた今、もう褪せた概念で、どちらかというと、シンギュラリティへの近似も得る。ハッシュタグの山、膨大な呟き、顔本(FB)の顔拓の末の被統治。なんだか、どんどん恐ろしくなって、近況報告の知的翻訳装置としてのそれらに関わらないようにしながら、それでも、ひたすら、「まとめ」、「共有」され続けるものがあり続けるのを鈍行の車窓から見ている気分になる。その気分は寂れた郊外で気化してしまうのだが。加え、時間論で云えば、垂直でしかない。ただ、ひたすら航行は続けないといけないのだと思う。
きっと世界の温度は暗くても、灯りは暖かい何かがある。
だからこそ、大気汚染やいつ何が起こるか解らない殺伐性、高速度フィルムのような日常の中でもまばゆい真昼を生きる子供たち、また、大人になり損ねた油断した大人たちに期待をしている。マスクや防備が要らない瀬になるように、それでも。
GRAPEVINE『真昼の子供たち』