ただ、その“装置化してしまった“側面を的確に悠然とSWOT分析したように思えてしまうのが、今回の『REFLECTION』を巡る一連の所作のような気さえして、テクニカルなようで、遊びの要素も活かされていて、ライヴ・パフォーマンスも映像や演出の凝ったところは流石だったが、シンプルなバンド・サウンドが基調になっていたり、どこか円熟した瑞瑞しさをおぼえた。SWOT分析とは経営戦略の際に用いられる基本的な手法だが、Strength(強み)、Weakness(弱み)、Opportunity(機会)、Threat(脅威)でポートフォリオを描き、マッピングするもの。SとWは縦軸として内部環境、OとTは横軸に外部環境、そして、細部を抽出してゆく。このステラテジーには更に”PEST“といった環境因子を組み入れたり、既存のデータベースを活用したものまで周縁には多くの要素から分析手法も付随するが、基礎的なものとしてSWOTを今回は取り上げる。S(強み)に関しては、彼らの場合はセールス・ポテンシャル、ファン・ベースの大きさ、確固たる知名度、評価などが確然とある。W(弱み)は、前述したようにいささか刺激の少ない曲、誰にも優しい曲が増えざるを得なくなってきた、ある種の仮想敵として新進のロック・バンドからの押上げなどが上げられるかもしれない。SとWは表裏一体でもあるので、ミスチルまで行くと、WもSに成り得るところもある。そして、外部環境として、O(機会)に関しては作品のリリース、プロモーション、ライヴ・ツアーという慣例を彼らもなぞっていたが、今回はまずファンクラブ限定のライヴハウス・ツアーを行ない、そこでまだ発表してしない新曲群を披露するという試みを行ない、その模様をドキュメンタリー映画として公開する方法を取った。そうなると、新曲群への反応がネットなりあらゆるところへ点在することになる。となると、それらはどうなるのか、という意味で外部の外部にいる第三者的にも「何か面白い試みをしている」という(間接的な)訴求性を持つ。ただ、附箋しておくに、新曲や新作を控えた上で、ウォーミングアップ的にライヴを行なうというのは然程、珍しいことではなく、海外ではある程度のセールス規模を誇るバンド、アーティストは冠詞なしのツアーなどを始め、そこで大量の新曲、未発表曲を演奏するなんてことはある。アルバム・タイミングで、というより、アルバム・リリース前にフェスで来日したバンド、アーティストの新曲を「体感」した人は少なからず居るのではないか、と察する。T(脅威)は、AKB48やアイドル・グループをはじめとした多様なパッケージング戦略や配信文化の定着などがあるとともに、いざアルバムがリリースされた今となっては、一つひとつのタイミング、パズルのピースがうまくはまるのかどうか、危うくも大きいプロジェクトとしてミスチルの中のバランスも大きかった想いがある。コンセプトとは主体側のエゴであるケースがある中で、そのコンセプトへの理解のための説明書は”懇切丁寧に越したことがない“のだろうが、反位的な一例に、昨年の2014年9月に突然、リークされた世界で注視される日本の気鋭のアーティストのひとり、world’s end girlfriendが変名で世界のどこかにニューシングルをリリースしたというときは謎解き以上の”不親切さ“に胸躍るものがあり、そういったものと共存していけばいいのにな、とは思いもする。何らかの手段を経て手に入れること、何らかの目的で手に入ることは、”ら“抜き言葉作法以前に、行動心理を規定したりするからで。
今回、ファンクラブのイベントで初めてアルバムに収録される一部の曲を演奏→ドキュメンタリー映画として公開→ライヴ・ツアー→アルバム・リリース、都度、収録曲の幾つかが映画やCMとのタイアップが発表されていき、段階的に、断片が全体像を浮かばせるような演出形態になっていった。また、一部の曲のクレジットは従来どおり、小林武史の名前が入っているものの、所属組織の分社化に伴い、事務所の変遷、また、彼らの強い意思によるところもあったのだろう、基本はセルフ・プロデュースになっており、そういったところから『REFLECTION』を巡っては、これまでとはより違った在り方を追求、模索していたのはうかがえる。昨年の11月にはこのmusiplでも編集長の大島が言及していた「足音 ~ Be Strong」がパッケージものとしてリード的な意味合いを含んだシングルとしてリリースされているが、表題曲のプロデュースの名義は”Mr.Children“だけとなっている。TVドラマの主題歌という因子は付帯していたものの、リ・スタートとして選んだような意味深長な節がある。
さて、『REFLECTION』は、Mr.Childrenとしての新作という枠で対峙すると、目新しさはない。それでも、いい意味での山っ気やぎらつき、偽悪性があり、スタジオ録音作品ではどうにも輪郭がぼやけてしまいがちだったソリッドなバンド・サウンドが響く曲も散見する。ベテラン・バンドの充実した作品ともいえ、エンニオ・モリコーネからウィルコ、オルタナ・カントリーを歌謡的に希釈した「斜陽」でのショート・フィルムのような四分間、得意とするスケールの大きいロッカ・バラッド「Starting Over」では、モンスターがいて、銃声の響く世界で、終わりの中で始まりを見出そうと弾倉に弾を込める、戦時下のための背中を鼓舞する力強さがあり、ダークで耽美的な「WALTZ」、ビートルズの「Tomorrow Never Knows」的なサイケデリックな始まりから、うねるようにじわじわと熱をあげてゆく「未完」はライヴでこれから盛り上がりを担う高揚感がある。
今作にあたって、インタビューで桜井和寿は、自分の中の浜田省吾、甲斐バンド、初期のJ-POPからの影響と、それ以降に色んな音楽を聴いてきたごちゃまぜな感じ、どこにも方向が定まっていない、ぐちゃっとあるのが『古新しい』感じがした、と述べている。(参考:『ROCKIN’ ON JAPAN 2015年6月号』p.53より)実際、浜田省吾、甲斐バンド、尾崎豊、KAN、ナオト・インティライミなど彼がよく言及する日本の音楽から、ビートルズ、ストーンズ、ブライアン・ウィルソン、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、ビリー・ジョエル、U2、レイディオヘッド、ジャック・ジョンソン、マルーン5、コールドプレイなどの音楽エッセンス、そのまた先のルーツ・ミュージック、伝統文化への歴史背景の中で揉まれるさまが要所に色濃くごちゃ混ぜに出ている。これと同じなようで非なることを桑田佳祐もいみじくも言っていた。自分はずっと洋楽という“洋食”に憧れてきたが、今回(新作の『葡萄』)は白いご飯、和風の出汁をとった味噌汁、お新香を付けることを心掛けた、と。昔ながらの洋食屋で出すような“ビフテキ定食”と。(『SWITCH』2015年4月号p.22より)ロック・バンドのロック・アルバムというには、ミスチルの場合も和食の良さを追求してきたようなチャームが強みであり、そこが寧ろ、異国の人からすると、日本のメガ・バンド以上の色眼鏡を越え難い“枯木灘”的な土着性をおぼえさせた、させているのかもしれない。サザン的な古き良き洋食店の定食ではない分、アルバムを聴いていると、和食という文化財をとおして思い浮かべるものは千差万別で、ここが契機でその先の彼らのごちゃ混ぜになったルーツを辿ってほしいような気にもなった。